廉の父親、匠です。
今夜は我が家お気に入りのウッドデッキで、夜風にあたり、ランプに灯を点し、ゆっくり息子と語り合いたい、そんな風に思ってました。少なくとも僕はそんな気分全開でした。が、しかし我が家の離婚騒動のお蔭でそれは台無しとなり。しかも僕は、ついつい余計な話まで廉にしてしまいまして、先程からその件で奴はずっと美波を問い詰めている次第であります。
あのしつこさは、一体誰に似たのでしょうか?
「ねぇねぇ何で匠が泣くのさ。教えてよ~」
「だから、匠くんは泣いてないの」
黄色い声を連れ、ウッドデッキから美波と廉が入って来た。
「さっき匠は、泣いたって僕に言ったんだよ」
「そうなの?私は聞いてないから知らないわ」
「大人ってお葬式以外で泣く時あるの?」
「大人だって泣く時はあるわよ」
「え?大人なのに何で?」
「それは……泣くには色々理由があるでしょ。一概には言えないわ」
「じゃあ匠は何で泣いてたの?」
「知りません。匠くんも変な事言わないで!」
「匠は、今朝泣いてたって言ったんだよ。ねぇ匠」
今度は廉が僕に同意を求めてきた。が、僕はテレビから眼を離さないと固く心に誓っていた。
「ねぇ匠!泣いたんだよね!」
廉はテレビを消し、僕を見詰めてきた。
「ね!匠!」
廉は全くもって本当にしつこい。
「あのな、廉、仮に俺が泣いたとしても」
「泣いたって僕に言っただろ!」
「分かった分かった。泣いた、泣いたよ。」
「ほらね!美波、聞いた?」
「でもな廉、大人の事情は残念ながら大人にしか教えられないんだ」
僕は真面目に廉に話していた。
「僕も大人だってば!」
「え?どこが?」
僕は笑ってしまった。
「だってさ……見つけたんだ!」
「何を?」
「下の方に……大人の証」
またその話かよ……
だから、廉にはまだ早いです!
「今度は本物だよ!」
廉が勝ち誇ったように僕に言う。
「本当に?」
「大丈夫、今度は間違いない。だから教えて」
「それはなぁ、ちょいと確認しとかないとなぁ」
廉を捕まえようとする僕。叫びながら逃げ回る廉。結局、いつものプロレスごっこが始まるはめとなっていた。
思うに、廉も最終的にはプロレスに持ち込みたかったんだと思う訳で……
それに、僕も廉と語り合うより、遥かに此方の方が楽しい訳で……
しかも、最初からプロレスごっこでもしていれば我が家の騒動も起こらなかった筈で……
結局今回の離婚騒動の一件は、僕が反省するべきなのかもしれない……
「それでは、おやすみなさい」
呆れて寝室に行く美波。
「電気アンマ一!」
僕は思いっきり廉に必殺技を掛けた。
「降参、降参、匠!降参だってば!」
家中に廉と僕の声が響き渡っている。
「もう泣いたって言うなよ!」
「分かった、分かったから降参!」
「絶対に言うなよ!」
「言わないよ!分かりました。参りました!」
結局、プロレスごっこは20分余り続いていた。
廉を寝かせた後のリビングは、取り残されたたくさんの物達が静かに佇むだけの空間となっていた。
テレビゲーム、漫画、児童書、おもちゃ、廉が夕方使っていたブランケット、ランドセル、勉強机、壁に掛けてあるサッカーの賞状、など。
物言わぬ廉の道具の世界は、彼の成長と共に今までずっと縦横無尽に変化してきた。それらが、どん底にあった僕の命をここまで連れてきてくれたと言っても過言ではない。もちろん美波の存在は言うまでもないが、廉や彼の道具の世界はいつも、僕に父親として生きるという事の素晴らしさを、そっと教えてくれている。
そして、その出発点にいてくれたのは、僕の親友だった久士の存在があった……
僕は15歳の春、早朝から、親父の知り合いの美容室に住込で働き始めた。特に美容師になりたかった訳ではない。『手に職をつける様に』と半ば強制的に職場を決められたのだ。お袋は、何度となく警察に厄介になってる僕が、就職出来る事に泣いて喜んでいた。
ただ、出来の良い2歳上の兄貴の将来を邪魔をさせたくないのが両親の本音だと分かっていた僕には、寂しい思いだけが心を駆け廻っていた。
僕は通信制高校に通いながら住込で働いた。朝7時から夜8時まで、準備、片付け、食事の支度を含めみっちり働かされ、その後毎晩夜中まで練習していた。
どの美容室に行っても客受けが良かった僕は、どの美容室に行っても生意気だと嫌がらせを受けた。ずっと厄介者で通っていたから特に気にする事ではなかったが、また以前の自分に戻ってしまうのではないかと、それだけが怖かった。これ以上両親に迷惑はかけられない。
実家には帰れず、美容室を転々とする生活が続く。数え切れない程転職した。
ようやく美容師の免許を取り、初めてアパートを借り暮らし始めた頃には、25歳の秋になっていた。
美容師免許を取り丁度2年経った日の晩、近所の安い定食屋で遅い夕食を済ませ、アパートへの道を歩いていた。僕は美容師になっても、転職癖は相変わらず変わってなかった。
秋を感じさせる冷たい霧雨は気持ちよく、濡れたままのんびり歩き続けた。
遠慮がちに鳴く秋の虫たちは、秋の夜長をゆっくり時間飛行し、彼岸花の畦道は、夜更けの道案内をしてくれていた。
アパートの前まで来ると、今朝は気付かなかった金木犀の仄かな香りが、今宵の霧雨と共に僕の身体に優しく降り注いでくれた。
それは、いつもの寂しいこの時間を少しだけ開放し、いつもの疲れたこの時間を少しだけ癒してくれた。
部屋に入ってもする事がない僕は、暫くの時間を金木犀の香りと共に過ごしていた。
「こんばんは」
突然、虫の鳴き声に乗せられ、透き通るような声が運ばれてきた。
「こんばんは」
振り向くと、美波がいた。
美波はその頃、恋人でもなく、友達ですらなかった。美容室の客、ただそれだけの関係だった。そんな彼女はいつも僕に言ってくれていた。
「シャンプーは匠くんじゃなきゃ駄目なの」
どこに行ってもシャンプーばかりさせられていた僕にとっては、あまり嬉しくない話だったが、馴染みの客が出来た事は本当に嬉しかった。歳上の彼女は、4年前から僕の数え切れない程の転職を、ずっと数えながら付き合ってくれていた。本当に有り難い客だった……
美波は、結婚していた。初めて客で来てくれた頃から。子供はいなかったが、旦那は大きな会社の跡取り息子だと聞いていた。
そんな彼女が、雨に濡れ、僕を見つけた。
「匠くんのお城、見に来た」
「……え?」
「ようやく来れた」
「…え?」
「かなり迷った」
「……」
「とっても遠かったです」
「……」
「でも、どうしても、4年間に16回転職した匠くんに、今日、会いたくて」
「……」
美波は少し笑った。僕も……笑うしかなかった。
「金木犀、いい匂い。懐かしい……」
「……」
彼女はそれから、暗闇から舞い落りてくる霧の雨を仰ぎ、両方の腕を小さく広げた。そしてゆっくり深呼吸すると、僕を見て少し微笑んだ。その美しくもはにかんだ微笑みは、何かを懸命に我慢する姿にしか見えなかった。少なくとも彼女の溢れそうな涙は、僕には隠し通せそうになかったのだ。
なぜなら街灯が、彼女の瞳の涙をキラキラと波打たせ、僕に知らせてくれていたから……
「あ、今傘持ってきます。待ってて下さい」
「いいの!」
「……」
「いいの」
「……」
「大丈夫、このままで」
彼女はようやく、そっと涙を拭いた。
「あの……」
「……」
「とうしましたか?って……聞いてもいいですか?」
僕は彼女を見ないように、眼を反らして言った。
「……そうね」
「……」
「そうよね……」
「……」
「でも、出来れば、何も聞かずにハグしてくれたら、嬉しいかな」
「……」
「悲しい気持ちだけで……何とか終われそうだから」
「……」
「そしたら、明日も……元気に生きていけそうだから……」
「……」
「そしたら、匠くんの、転職の数も、笑って、数えてあげられそうな、気がするから……」
「……」
「……ごめんなさい」
「……」
「ごめんなさい」
「……」
「迷惑……だね」
「……」
「本当にごめんなさい」
美波は涙を堪えて一生懸命話してくれた。
僕はその切なさに、暫く何も言えなかった。
「泣いて下さい。この際、泣いちゃって下さい。誰も見てませんから……」
ようやく僕は、美波をそっと抱きしめ、言った。
「俺も、見ませんから」
「……」
「好きなだけ泣いて下さい」
「……ありがと」
僕の胸の中で、美波は小さくつぶやいた。
美波の濡れた身体は少し震えていた。それが寒さからなのか、泣いていたからなのか、僕には分からない。
相変わらずの霧雨は、金木犀の仄かな香りを包み、更にそれが、僕達を包みこんでくれていた。
静かな静かな夜更けだった。
あの日以来、美波が僕に顔を見せることは、なかった。